「SAISHOKU-Fair」プレイベント in東福寺
原田融道(東福寺第305世住持 東福寺派管長)
「一時座禅すれば、一時の仏なり 一日座禅すれば、一日の仏なり 一生座禅すれば、一生の仏なり」
臨済宗東福寺は、開山が聖一国師、創建の発議をする開基は時の摂政九条道家公で、鎌倉時代1236年の建立から約800年の歴史があります。開山国師は人材育成に力を入れ多くの弟子を育て、私で305代目になります。
難解な禅師の指導に対し、どう修行を進めればいいかを九条道家公が尋ねたところ、禅師は次のように答えられました。「一時座禅すれば、一時の仏なり 一日座禅すれば、一日の仏なり 一生座禅すれば、一生の仏なり」。一時の座禅は一時の仏となり、それを一日、一生と続けるよう努力するよう説かれました。
誤解されがちですが、仏教で教える「仏」とは死後の姿ではなく、生きているうちによりよき人間、人格者を意味します。実践に当たっては、お経の言葉「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」がよく使われます。「諸悪莫作」は悪い行いをしてはならない、「衆善奉行」はよいことをしなさいと、本当に単純です。「自浄其意」は、自分で自身の心を清めなさいという意です。
人間というのは単純ではありません。日頃はよい人間でも、時と場合によってはよくない方向に行く場合もあります。悪いと思えばしっかり反省し、直していく姿勢が仏教の教えだというのが、最後の「是諸仏教」の意味するところでしょう。
人間関係を良くする
「慈眼施」「和顔施」「愛語施」
この教えを実践するために、仏教では「無財七施」を行ないなさいと説きます。人間関係をよくするには、とりわけこの初めの三つを実行することです。
まず「慈眼施」。優しい目で人を見る。次が「和顔施」。優しい顔で、いつもにこにこしている。3番目が「愛語施」。優しい言葉をかける。
往々にして、自分が発したものがそのまま返ってくるのが人間ではないでしょうか。きつい目で見れば相手もそうなる。笑顔で接すれば相手もにこやかになります。自分からよいことを発信していけば人間関係はうまく行くようになるのです。
早朝、お寺の周りを掃除する際、私は通りがかりの人に「おはようございます」と声をかけます。笑顔で優しい言葉をかけるように気を付けていると、最初は知らん顔していた人でも、やがてあいさつを返してくれるようになります。こちら側からアクションを起こしてよい方向に持っていけるようにする。それが仏の心であり、よき人間となる第一歩です。
修行時代のことですが、周囲はお寺の跡取りばかりで、在家、つまり一般家庭出身の私はお経一つにもなじみがありませんでした。修行の最初は極端に睡眠時間が短くなります。1日3時間の睡眠で覚えようとしましたが、無理がありました。月に2回いつもより長く寝れる時に、前の晩覚えたことがきちんと頭に入ったことがありました。そこで、人間は最低限の眠りを確保しないと記憶が定着しない現実を、身をもって体験できました。
私が言いたいのは、物事をするのに適切な方法があるので、どうすればよい人間になれるのか、皆さん自身で考えていただきたいのです。人間には自己を守る本能があり、それをいかに小さくし、他にも心を向けれるかが大切です。自己主張同士の対立の極致が戦争という最悪状態でしょう。
禅の一番の肝「自分自身でつかむ」
全部が正しい人、あるいは悪い人はいません。どんな人にも悪い部分とよい部分があります。それをどのように公平に見るか。自分の利益だけを追求せずにいたいものです。
自分の仕事をして、世の中の役に立つようになるには、まずは人間関係をよくする。優しい目で見て、笑顔で接し、いい言葉をかける行いから始まっていきます。御開山が唱えられたように、一時の座禅を一日に、そして一生へと続ければ、最終的に納得できる人生になると私は信じます。
最後に、聖一国師の「遺偈」(ゆいげ)すなわち辞世の句を紹介しましょう。
「利生方便 七十九年 欲知端的 佛祖不傳」。衆生に尽くして79年経たが、仏教の教えを知ろうとしても、誰も教えることも伝えることもできない、自分自身でつかむしかないと説かれています。これが禅の一番の肝です。
これからもよい人生を送られるよう心よりお祈りしております。